変化の始まりは “ 認識 ” から

ー自分と自分の宇宙は実在しないー すべての問題の始まりは「自分がある」という人間共通の認識から。今までをAll Zero化した 「0=∞=1」から認識する新しい基準点。  本物のチームプレイ完成に向けてチャレンジしています!

台湾で愛される日本人、八田與一さん

〜変化の始まりは“認識”から〜をキャッチフレーズに、

AI時代のチームプレイを実現するため、 

新しい変化スタイルを提供するCallingerの山口禎子です。

 

今日は、台湾で一番有名な日本人の方をご紹介します。

八田與一さんです。

 

台湾の教科書にも載っている日本人

皆さんご存知ですか?

私も実は全く知りませんでした。

台湾の教科書には載っている程、有名で尊敬されている方ですが、

日本の教科書では紹介されていない。なんだかおかしいと思いませんか?

 

先日、與一さんのお孫さんに当たる八田修一さんのお話が聞けるという事で、

講演会に参加して、お話を伺ってきました。

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與一さんは、東京大学土木科を卒業されて、

すぐに台湾に渡り、当初は、疫病に悩まされていた台湾で、

衛生事業として、下水道の整備を担当し、

その後、発電・灌漑事業に移り、台南開発に携わります。

 

その頃、台南は荒地で、

  • 雨季である5〜9月に集中的な雨による洪水被害
  • 10〜4月は逆に雨がまったく降らない乾季による水不足
  • そして海水による塩害

という三重苦の状態でした。

その地域に、ダムを建設し、隅々まで水を行き渡らせる一大プロジェクト!

 

当時、東洋では過去例がない大規模工事だったり、

コンクリートをほとんど使わずに、粘土・砂・礫を使用した

セミ・ハイドロリックフィル工法なる工法での工事。

 

また、長期間になるということで、

家族が一緒に住めるような宿舎や、学校の建設をするという

周りを驚かせるような発想で、10年にも及ぶ工事を大成功させました。

 

完成までに乗り越えた2つの危機

完成までの10年もの期間の中で、2つの危機があったそうです。

1つは、トンネルでの爆発事故です。

10年間で殉職された50人余りの方の内、

ほとんどが、この爆発事故で亡くなられたということです。

 

工事を続行していくのか、それとも中止するのか...

そんな選択に葛藤されたという與一さんですが、

周りの方たちの後押しで、工事続行を決めて、進んだそうです。

 

そして、2つ目の危機は、予算カットによるリストラです。

日本では関東大震災が起き、予算が大幅にカットされ、

人をリストラせざるを得ない状況になったのです。

 

地元の人たちは「まず、自分たちが仕事がなくなるのでは...」と

不安に思う中、與一さんはどうしたのかといったら、

日本人の、しかも技術力の高い人材をリストラしたのです。

 

その理由としては、

「技術力が高い人なら、再雇用先が決まるだろうから」

 

この話を聞いた時、與一さんという方は、

台湾人とか日本人という境界線がなく、

大きなVISIONに向かって、

“みんなにとってよりよい未来を創っていくこと”

そこに力を注いでいらした方だと思いました。

 

続きがあって、“職がない状態にならないように”と

リストラになる人の再雇用先を、

與一さん自ら、探し回って見つけていったそうです。

 

與一さんという人柄や、人を大切にする想いが伝わってきます。

 

今でも振動している與一さんの想い

與一さんの最期は、戦時中の1942年。

フィリピンの灌漑調査の為、広島から出港した大洋丸が、

途中、アメリカ海軍の雷撃にあい、沈没して亡くなっています。

 

そして、1945年終戦後の9月1日。

與一さんの後を追うように、奥さまがダムの放水口に身を投じて亡くなられました。

9月1日は、ちょうどダムの建設工事が始まった日だったそうです。

 

奥さまの想いはどんな想いだったのか...

 

ダムの湖岸に公園があり、與一さんの銅像が建てられています。

後ろにあるのは、與一さんのお墓です。

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こんな感じで、日常の1シーンを切り取ったようなポーズです。

でも、それが與一さんを思い起こさせる、

與一さんらしいポーズなのでしょう。

 

與一さんが亡くなられた5月8日には、

今でも毎年、地元の方たちによる慰霊祭が行われいます。

亡くなられて76年。それでもなお、與一さんの想いが台湾で

振動しているのを感じます。

 

想いを未来へ

お孫さんである八田修一さんのお話で、一番印象的だったのが、

修一さんのお父さんの言葉です。

 

與一さんのお子さんに当たる方ですね。

與一さんは8人の子供に恵まれていて、

2人が男、残り6人は女の子でした。

 

お孫さんの修一さんのお父さんは、8人兄弟の長男だったようで、

戦後、お父さんである與一さん、お母さんも亡くなれてしまい、

結婚をしていなかった妹たちを、修一さんのお父さんが引き取られて、

面倒を見られたそうです。

そのお父さんは、自分の父である與一さんに対して「恨んでた」と...

 

戦後の混乱の中、妹さんたちの面倒を引き受けて、

相当な苦労があったのだと思います。

台湾の方たちからは尊敬され、大きな貢献をしているけど、

家族で過ごす時間は少なかったのではないでしょうか。

 

これはお孫さんである修一さんからしか聞けない、とても貴重なお話です。

 

私は、この與一さんとお子さんのエピソードが、

特に印象に残ったことが、なんでだろう?と思いを寄せてみました。

 

そして気づいたことは、

 ー 人と人の想いを繋ぎたい ー  その気持ちがあったのです。

 

與一さんが台湾の人にも分け隔てなく接し、人を大切にされていた方なので、

自分の子供達や奥さまに対して、愛情がないわけがありません。

きっと大きな愛を持っていたと思います。

 

子供である修一さんのお父さんも、大きな仕事に取り組むお父さんに

憧れや、尊敬があったと思います。

だからこそ、淋しい想いをしたり、

もっといろんな事を教えて欲しかったり、

父親に対しての期待があったんじゃないかと思います。

(これはあくまで私の想像ですが...)

 

それぞれに思う気持ちがお互いに届いてなかった、

気づいていなかった。それはとても悲しいことです。

 

人と人の想いが繋がる道、続いている道が必ずある。

 

私は、それがしたい事だと、改めて気づく事ができました。

だから、人と向き合う事を諦めないし、

誰とでもチームプレイできると確信しているし、

どんな違いがあっても、想いは繋がる、続いている、通じるその道を

模索し続けているんだと思いました。

 

八田與一さんが造った想いのこもった「烏山頭ダム

是非、足を運んでみたいと思います。

 

2020年は東京オリンピックが開催の年ですが、

お孫さんの修一さんにとっては、

烏山頭ダム工事の開始して100年。完成して90年の年だ。」

とおっしゃっていました。

與一さんから始まったダムへの想いが、

時を超えて、代々受け継がれているのを感じました。

 

2018年11月に、新感覚「教育観光ツアーヌリ路」で、

台湾ツアーが開催され、烏山頭ダムも行く事ができます。

 

 

最後に、私がこの八田與一さんの事を知る事になったのは、ここ1,2年の事です。

きっかけはNoh Jesu1Dayセミナー

Part2 JAPAN MISSIONと日本式経営モデル

このセミナーの中で、Nohさんからお話されていたのを聞いた事でした。

 

 

日本人は本当に、これまでの活躍した日本人のことを知りません。

明治維新150年である2018年という今年。

日本の近代化を果たした、日本人の繊細な心、緻密さ、想いの強さ、

あらゆることを、私たちは知る必要があると強く感じました。

 

日本の精神性、当時の想いと、多くの方に出会って頂けたらと思います。

 

 

長くなりましたが、最後まで読んでくださり、

ありがとうございました。